フランス工房ジャーナル
2018-06-30T20:35:43+09:00
cheznono
不思議の南フランス:日仏行ったり来たりと映画大好き日記
Excite Blog
ヴィトレ城
http://cheznono.exblog.jp/28414493/
2018-06-30T20:35:00+09:00
2018-06-30T20:35:43+09:00
2018-06-30T20:35:43+09:00
cheznono
フランスの城と歴史
15世紀のヴィトレ男爵のお城で、フージェール嬢とともにブルターニュ公国とフランス王国との国境を守ったゴシック様式の堅固な城塞です。こちらもヴィクトル・ユゴーが賞賛したことで知られますが、塔の立ち並ぶ城のファサードは、かなりの迫力。
ヴィトレの町は1000年に誕生し、ヴィトレ城を中心に中世に発展していったようです。現存する塔のうち、3つは見学ができて、町を見下ろせます。城の中庭には、19世紀に牢獄として建てたられた建物が残っていて、今は趣きのある市庁舎として使われています。
中世の繁栄を今に伝えるヴィトレの町は、車の通行量こそ多いけれど、観光シーズンでも人影はまばら。でも、フランスの花の町コンクールで上位に選ばれるだけあって、お花がきれいに手入れされている、とても感じの良い町でした。5キロほど先には、書簡で知られ、ルイ14世時代のサロンの花形だったセヴィニエ侯爵夫人が滞在したお城もあるのですが、今回は行けなくて残念。
レンヌからTERで20分〜30分とアクセスも便利です。
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フージェール城
http://cheznono.exblog.jp/28409795/
2018-06-28T06:36:00+09:00
2018-06-28T06:36:49+09:00
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cheznono
フランスの城と歴史
レンヌからバスで1時間10分。ブルターニュ公国の国境を守備したフージェール(フジェール:Château de Fougères)は、ヨーロッパで現存する要塞の中でも、最も状態が良いとされています。バスは1時間に1本は出ているのでアクセスが良く、城の向こう側の町も良い雰囲気の素敵な観光地でした。
フージェールは、オノレ・ド・バルザックがフランス大革命中に起きた王党派によるヴァンデの反乱について描いた『ふくろう党』の舞台となった町ですが、シャトーブリアンやヴィクトル・ユゴーも中世の面影が色濃いこの町に惹きつけられたとか。
フージェールの城は何度も攻撃され、幾度もの戦いに見舞われながら、1000年から1500年まで、ブルターニュ公国をイギリスやフランス王国からの侵入から国境を守るべく、健闘したようです。敵に囲まれても生き抜けるよう、城の中にも村があったそうですが、それにしては城内の庭の規模は小さめかも。
現存する13の塔は、カルカッソンヌを彷彿とさせます。ただ、幾多の戦争によって中は廃墟に近く、レ・ボー・ド・プロヴァンスのようにツワモノたちの夢の跡といった印象。プティ・トランで高台のサン・レオナール教会の横からお城を見下ろすと、中世の在りし日が偲ばれます。
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そして、モン・サン・ミッシェル
http://cheznono.exblog.jp/28403940/
2018-06-24T20:13:00+09:00
2018-06-24T20:13:51+09:00
2018-06-24T20:13:51+09:00
cheznono
フランスの城と歴史
レンヌと言えば、やっぱりモン・サン・ミッシェル。島を自然の姿に戻すために道路(堤防)を撤去して橋ができてから、ぜひもう一度見てみたいと思っていました。レンヌのバスターミナルから約1時間半で、モン・サン・ミッシェルの対岸に。数日前にレンヌで切符を買おうとしたら、ギリギリでも席は絶対あるから乗る直前に買えば良いと案内されましたが、その通り、パリからのTGVと接続しているわりに、バスは空いていました。 対岸のバス停からは、タダのシャトルバスに乗って橋を渡り、島の全景が目の前に見えて来た所でバスが停車して、その後は徒歩。大潮の日は海に浮かぶ島になるそうですが、引き潮だったので白い砂浜に浮かぶ島の中に入ると、相変わらず賑やかな参道が修道院まで続きます。
ベネディクト派の修道院の中はがらんとしていますが、やはり中庭を囲んだ回廊はきれいでした。女子修道院だとこの回廊がだいじな自由時間を過ごす場所なのですが、ここでは修道士がお祈りや瞑想をする場だったとか。この島で、写経や本を手書きで書き写した中世の修道僧に思いを馳せながら、薄暗い部屋を回りました。
茹で卵サンドイッチを持参したので、オムレツは食べず、大昔に来た時に比べて、はるかに神秘性が薄れて感じられたのは、日差しが強かったからかな。そして、ここにも迷彩服の兵士たちがカラシニコフを手に見回りにやって来たのを見た時は、一瞬で現実に引き戻される感じが。僻地ではあっても、観光客が溢れる聖地はやはり要注意なのですね。取り外されて塗り直された大天使ミカエルが、鐘楼の上でピカピカに光っていました。
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ブルターニュ紀行:レンヌ
http://cheznono.exblog.jp/28401256/
2018-06-23T07:01:00+09:00
2018-06-23T07:07:11+09:00
2018-06-23T07:01:17+09:00
cheznono
未分類
パリからTGVで1時間半と、アクセスが楽になったレンヌを起点に、初めてのブルターニュ地方探索を開始しました。まずは、絵葉書で見かけるレンヌの旧市街から。学生の多い、活気ある街は、かつてのブルターニュ公国の繁栄を今に伝えています。 『ブルターニュ紀行』を記したギュスターブ・フロベールが友人のマキシム・デュ・カンとこの地方を巡った頃の神秘性を今も保っているのは、やはりブレストやカンペールなど、半島の先の方かも知れませんが、入り口にあたるレンヌもなかなか個性的で、その歴史的建造物の豊かさに圧倒されます。18世紀には大火事、第二次大戦ではドイツ軍の空襲と、大火に見舞われたレンヌですが、旧市街には15世紀、16世紀の木骨組みの家並みがあちこちに。老朽化と安全上の理由から、戦後取り壊された家も多いそうですが、今なお、木造6階建が機能しているのはすごい!この辺りの木骨組みは、木の入り方が細かくて独特のデザインとなっており、フランスの他の地方で見かける木骨組みの家々とはかなり印象が異なります。地下鉄の駅もあまり目立たず、街並みの趣きを邪魔しないように設計されている感じ。そして、聞いてはいましたが、人が優しいのにも感動です。
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アニエス・ソレルとロッシュ城
http://cheznono.exblog.jp/25871348/
2016-06-03T07:40:56+09:00
2016-06-03T07:40:46+09:00
2016-06-03T07:40:46+09:00
cheznono
フランスの城と歴史
トウールからSNCFのバスで40分余りの美しい城下町ロッシュはアニエス・ソレルやアンヌ・ド・ブルターニュと縁が深く、ロッシュ城にはアニエスのお墓も設けられています。
ジャンヌ・ダルクがのちのシャルル7世にシノン城での最初の謁見に次いで2度目(1429年)に会ったのもこのロッシュ城。
11世紀初頭の高さ36mの主塔(ドンジョン)が有名で、牢獄として使われた時代もありました。
ジャンヌ・ダルクの活躍のお陰でフランス王となったシャルル7世は、40歳の時に初々しく美しいアニエス・ソレルに一目惚れし、アニエスをフランス史上初めての公式寵姫に迎えます。アニエスが生んだ3人の娘も王が正式に認知し、出産のたび、ご褒美に城を与えたとか。
アニエス・ソレルは色が抜けるように白く、当代一の美女と称えられましたが、田舎貴族の娘に過ぎないアニエスへの周囲の嫉妬や反感も少なからず、アニエスが28歳で急死したのは、大量の水銀を服用したことによる毒殺説が有力です。(当時は虫下や痛み止めとして水銀を飲用する習慣があったようですが、2004年のDNA艦艇によると通常をはるかに超える水銀の摂取が立証されたため)
16世紀に入り、最初の夫シャルル8世の死後、ルイ12世の妃となったアンヌ・ド・ブルターニュもしばらくロッシュ城に滞在しています。城館内にはアンヌが毎日祈りを捧げたという祈祷室があり、クロ・リュセ城のアンヌの祈祷室よりも素朴な印象を受けました。
アニエス・ソレルの肖像画、従姉妹のアントワネット・ド・メーニュレと似ているでしょうか?
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ナント近郊:クリソンの城
http://cheznono.exblog.jp/25860290/
2016-05-31T07:46:00+09:00
2016-05-31T07:51:46+09:00
2016-05-31T07:46:29+09:00
cheznono
フランスの城と歴史
水銀による毒説死がささやかれるアニエス・ソレルの突然死の後、わずか3ヶ月後にシャルル7世はその従姉妹アントワネット・ド・メーニュレを愛人に迎えます。当代きっての美女アニエスに少し面影の似たやはりかなりの美人だったアントワネットは、王の寵愛を受けたくて共に育った従姉妹アニエスの毒殺を画策したのでは?とまで疑われている人物ですが、アニエスほど知的な女性ではなかったとか。とはいえ、シャルル7世一筋で薄命だったアニエスと比べると波乱万丈の人生です。
シャルル7世が他界すると、その息子ルイ11世から宮廷を追われたアントワネットはアンヌ・ド・ブルターニュの父であるブルターニュ大公フランソワ2世の寵姫に。ブルターニュ公を見張るスパイとして、ルイ11世が送り込んだという説が有力ですが、フランソワ2世は彼女に夢中になります。
ちなみに、シャルル7世はアントワネットを寵愛しながらも忠臣と結婚させていて、彼女はシャルル7世とも夫とも子供を設けています。
アントワネットとフランソワ2世との間に生まれた長男(アンヌ・ド・ブルターニュの腹違いの弟)に与えられたのが、この クリソン城。
この城は、当時ブルターニュ大公の城を守るべく要塞の役目を果たしていたため難攻不落に設計され、その甲斐あって、誰からも攻撃されなかったのに、廃墟となってしまったのは、フランス革命の後、共和国軍に火を放たれたから。
お城は痛々しい姿となってしまいましたが、人口7000人のこの村に毎年5万人の観光客が訪れるというからたいしたものです。
アントワネット・ド・メーニュレの肖像]]>
ナント:ブルターニュ大公の城
http://cheznono.exblog.jp/25832975/
2016-05-24T07:49:40+09:00
2016-05-24T07:49:35+09:00
2016-05-24T07:49:35+09:00
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フランスの城と歴史
Château des Ducs de Bretagne
15世紀にアンヌ・ド・ブルターニュの父親であるブルターニュ大公フランソワ2世によって建てられた城で、フランス軍の攻撃から守るため、外側は質実剛健な要塞の姿をしています。城の中庭側は画像のようにルネッサンス様式とゴシックが融合していて、白い壁がまぶしいくらい。
城の見学時間外でも中庭や城壁は市民に解放されているこのお城は、ナントの人の憩いの場のようです。
アンヌ・ド・ブルターニュは、ブルターニュ公国とフランスとの平和を身を呈して模索した善き公女、(ブルターニュ式の素朴な)木靴の王妃として慕われ、今でも人気があります。
1532年にブルターニュがフランスに併合されると、この城はフランス王がブルターニュ地方に滞在する際の宿泊先として利用されました。
カトリック教徒と新教徒ユグノーとの間で泥沼化した宗教戦争に幕を引くため、アンリ4世がナントの勅令を発布したのもこのお城です。アンリ4世がアンジェで準備した勅令の発布にナントを選んだのは、とてもカトリック色の濃厚な町だったからと考えられるとか。
城は17世紀に火事に見舞われ、19世紀初めには武器用弾薬が大爆発して大きく破壊されるという憂き目に合いながら、今はナントの辿って来た辛苦と繁栄の歴史を解説する博物館に。中世のアンヌの時代よりも、奴隷貿易で栄えた18世紀以降の歴史が充実しています。
http://www.chateaunantes.fr/]]>
クロ・リュセ城
http://cheznono.exblog.jp/25825354/
2016-05-22T07:19:00+09:00
2016-05-22T07:20:12+09:00
2016-05-22T07:19:13+09:00
cheznono
フランスの城と歴史
去年はアンボワーズ城を再訪したものの、雨で寒かったため、クロ・リュセには寄らずにトウールに戻ってしまいました。でも、パリの友達にクロ・リュセにも行かなきゃダメよと言われたので、今年はクロ・リュセへ。噂の通り、ルネッサンスきっての発明家ダ・ヴィンチのデザインした家具や発明した機械がたくさん展示されていました。
今年はレオナルド・ダ・ヴィンチがフランソワ1世に招かれて、クロ・リュセ城に居を構えてからちょうど500年を記念して、特別展も開催中。ダ・ヴィンチがクロ・リュセに住んだのは晩年の3年間ですが、10年にわたって3人のフランス王(シャルル8世、ルイ12世、フランソワ1世)との交流が伺え、とりわけ、フランソワ1世との絆の強さが伝わって来る展示となっています。ダ・ヴィンチもフランソワ1世も身長190cm以上の大男だったのですね。
晩年のダ・ヴィンチは当時としては稀なベジタリアンで、男子の平均年齢が30代半ばだった時代に67歳の長寿をまっとうしたのは、食生活に気をつけていたからかも知れません。
個人的にクロ・リュセを訪れて本当に良かったのは、シャルル8世が妃のアンヌ・ド・ブルターニュのために設けたミニ礼拝堂があったことと、フランソワ1世の姉で「エプタメロン」の作者、マルグリット・ド・ナヴァル(マルグリット・ド・ヴァロワ)の部屋があったこと。二人とも、知性と教養に優れ、揺るぎない信仰に支えられていた点で共通しています。シャルル8世もルイ12世も世継ぎが育ちませんでしたが、ルイ12世とアンヌ・ド・ブルターニュの長女クロードはフランソワ1世の最初の妻となり、二人の王子を儲けています。
http://www.vinci-closluce.com/fr
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パリの憂鬱
http://cheznono.exblog.jp/24537941/
2015-05-31T20:27:00+09:00
2015-06-01T20:28:44+09:00
2015-05-31T20:27:31+09:00
cheznono
不思議の国フランス
ニースから満席のTGVでパリに戻り、リヨン駅のタクシー乗り場に向かうと長蛇の列。15分以上待ってやっと自分の番が来たので、モンマルトルにお願いと言うと、ちょっとイヤな顔をされました。最低でも25ユーロはかかる距離なので、おかしいなと思ったけど、ドライバーは私のホテルの住所をスマホのナビに入力して走り出したから一安心、と思ったのもつかの間。
しばらくして、「マダム、実は僕、18時にヌイイー・シュル・セーヌ(お金持ちの住むパリ郊外)でお客さんと約束があるんです。空港まで送らないといけないんですよ。」時、すでに17時半近く。「今から18区までは遠過ぎるから、バスティーユ広場で他のタクシーに乗り換えてくれませんか?」とおっしゃる。
そんな、じゃあなぜさっきリヨン駅に並んだの?重いキャリーケース2つの私はなるべく乗り降りしたくないのに。「普通お客さんはシャンゼリゼ方面にと頼むことが多いのに、モンマルトルとは想定外。ヌイイーとは全然方向違うし。」そりゃあ、シャンゼリゼならヌイイーに行く途中だけど、タクシーが駅前に並んだ以上、お客がそう上手く自分の希望する地域に行くと思うなんて、おかしくないですか?と、文句は言ったものの、車の中でイヤな展開になってもまずいし。。
かくてバスティーユで降ろされた私はそれでも約10ユーロを請求され、広場で客待ちをしていたタクシーに乗り換えた。今度は強面のドライバーさん、リヨン駅で乗ったのにここで降ろされ、運賃も払ったとなげく私に同情して親切で、荷物代もおまけしてくれたから、救われた思いです。
無事ホテルに到着し、夕飯はいつもの中華テイクアウトへ。私の担当の女性はテキパキとチャーハンを温め、野菜炒めとエビ巻きなどを用意している間、先に会計を済まして待っていること5分。会計の若い中国女性が、私の前のフランス女性に結構大きな袋を渡して、メルシーと言って見送ったので、その女性が注文した量にしては袋が大きいなと思ってたら、案の定、私の注文担当の女性が「違う、あの袋はこの人のよ!」らしき中国語を叫んで、くだんのフランス女性を追いかけ、店を飛び出して行きました。
けれど、なかなか戻らない。お腹をすかした私が途方に暮れているところへ、やっと、でも手ぶらで帰って来た担当の女性。あいにくフランス女性はどこかに消えてしまったらしく、「すみません、もう一度用意しますから」と言って、私の分を再度取り分け、チンしてから渡してくれました。しかし、手早くすませたいテイクアウトだったのに、30分近くお店にいるはめに。
間違って私の注文品を渡されたフランス女性は少ししか頼まなかったわけだから、大きな袋をもらって変だなと感じたはずなのに、ラッキーと思って素早く帰ってしまったのでしょうか?
パリに戻った途端、次々トラブルにあうなんて、ついてない、と思っていると、翌日はモノプリで万引きを目撃。カンヌで主演男優賞を獲得したヴァンサン・ランドンの話題のドキュメンタリー風フィクションでは、大型スーパーでの万引きを監視する様子がつぶさに描写されているのですが。。
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ロワール:アンボワーズ城
http://cheznono.exblog.jp/24510185/
2015-05-24T03:07:00+09:00
2016-05-19T06:44:52+09:00
2015-05-24T03:07:53+09:00
cheznono
フランスの城と歴史
フランソワ1世が気に入っていたお城の一つアンボワーズ城は、ルネッサンス期に何人もの王族を迎えてその最盛期を迎えます。
城館向かいのチャペル、聖ユベール礼拝堂にはレオナルド・ダ・ヴィンチがお墓が。ダ・ヴィンチが与えられた住まいは、アンボワーズ城近くのル・クロ・リュセです。
フランソワ1世の孫の時代に、城内でプロテスタント信者がたくさん殺されてしまった事件があったため、アンボワーズは血塗られた城というイメージが拭えませんが、町は中世の残り香が濃くて、なかなか素敵でした。
ランジェ城でアンヌ・ド・ブルターニュと半ば強引に結婚したシャルル8世は、このアンボワーズで生まれ、同じ城で亡くなった珍しい王様です。イタリア遠征でイタリア文化に影響を受けたシャルル8世は、この城にイタリアから多くの文化人を呼び寄せたとか。同じくイタリア文化に魅せられたフランソワ1世の先駆者だったと言えるかも知れません。
けれど、シャルル8世は一番おばかな死に方をしたフランス王として紹介されることが多い不名誉な王様。アンボワーズの地下で当時の人気スポーツ、ジュー・ド・ポーム(テニスの前身と言われる)を楽しんだ際、ひどく気がせったシャルル8世は、うっかり地下の低い門に頭を強打してしまい、死の床に。あえなく、28歳の生涯を終えます。
ブルターニュ公女アンヌを自分の婚約者の父親マクシミリアン1世と離婚させ、自分はその娘と婚約解消して、アンヌ・ド・ブルターニュと結婚した報いだったのでしょうか?
夫婦仲は良かったというシャルル8世とアンヌとの間には嫡子が育たなかったため、アンヌは亡き夫の従兄弟ルイ12世と再婚。ルイ12世はシャルル8世の姉で足にハンディキャップのあるジャンヌという王妃がいたのに、結婚20年余りにしてジャンヌの身体的問題で夫婦関係はなかったとローマ教皇に申し立ててなんとか結婚無効を取り付け、晴れてアンヌと結婚するのでした。
行き方:トウールからの路線バスが一番安い。国鉄アンボワーズ駅からは約1㎞。
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ロワールの古城:ランジェ城
http://cheznono.exblog.jp/24494582/
2015-05-19T20:23:00+09:00
2016-05-19T06:45:51+09:00
2015-05-19T20:23:49+09:00
cheznono
フランスの城と歴史
10世紀末から英国プランタジネット家が統治していたランジェですが、1206年にフィリップ2世(尊厳王)がフランス領として取り戻しました。
現在のランジェ城は1465年にルイ11世によって建設されたもの。中世後期からルネッサンスに至る時代の変わり目を代表する城として、地元でも人気の高い古城の一つです。
このお城は、1491年にフランス国王シャルル8世とブルターニュ公国の王女で14歳の女相続人アンヌとの婚礼があげられたことで知られます。シャルル8世は宮廷に人質同然に連れてこられ養育されていたブルターニュのマリー・ド・ブルゴーニュと婚約していましたが、それを破棄して強引にアンヌとの婚礼を進めます。豊かなブルターニュ公国は周囲の国から狙われていて、ここを併合するのはフランス王家の大いなる野望の一つでした。
アンヌも幼いマリー・ド・ブルゴーニュの父親でローマ王のマキシミリアン1世の《結婚》していましたが、まだ相手に会ったこともなかったために結婚は解消され、シャルル8世と結婚することを承諾。ランジェ城での婚礼では、もしもシャルル8世が嫡子がないまま亡くなったら、アンヌは次のフランス王と再婚するべし、という前代未聞の条項にサインがなされます。
戦争の多い時代とはいえ、まだ21歳だったシャルル8世にはあまり現実感のない条項だったかも知れませんが、7年後、シャルル8世はアンボワーズ城地下の低い門に頭をぶつけて世を去ります。
シャルル8世とアンヌの子供たちは皆夭逝していたため、アンヌはシャルル8世のいとこにあたるルイ12世と再婚することに。 しかし、このルイ12世にも既に20年間も結婚していた王妃ジャンヌがいたのでした。
行き方:国鉄ランジェ駅から徒歩。トウールからミニバスツアーもあり。]]>
ロワールの古城:シュヴェルニー
http://cheznono.exblog.jp/24480328/
2015-05-15T20:37:00+09:00
2016-05-19T06:46:50+09:00
2015-05-15T20:37:39+09:00
cheznono
フランスの城と歴史
16世紀初めに建てられたシュヴェルニー城は今もユロー家の侯爵一家が住む私邸ですが、戦前から一般公開されていて、見学できる部分の保存状態が良いことで知られます。ユロー家は代々、フランス王の財政担当官を務めたため、館に王族を迎える機会も少なくなかったらしく、ヴァロワ朝後期からブルボン王朝の名残がいろいろ残されていて、思ったよりずっと見ごたえのある城でした。
この白亜の城館は17世紀のルイ13世時代に建築されたもので、大サロンには王と妃でルイ14世の母親アンヌ・ドートリッシュ、王弟ガストン・ドルレアンとその娘モンパンシエ嬢の肖像画が飾られています。回廊にはルイ16世の立派な肖像画があり、奥の間にはマリーアントワネットに気に入られたユベール・ロベールの風景画も。
ルイ13世の父王アンリ4世が利用した荘厳な寝室も保存状態が良くて、17世紀初めのまま時が止まったようでした。
庭のオランジェリー(オレンジの木の温室)は、第二次大戦中にドイツ軍の爆撃が激しくなって来た際に、ルーブル美術館などの大事な作品を避難させた場所だとか。絵画の避難については、谷口ジローのコミック「
千年の翼、百年の夢 」でも紹介されています。(オールカラーの豪華版がオススメ)
シュヴェルニーはタンタンのムーランサール城のモデルにもなったため、庭内にはタンタンの結構凝った展示室も設けられています。
そして、その奥には100匹を超える猟犬フレンチ・トリコロールの犬舎が。日向ぼっこする大量のワンちゃんは見学者たちに大人気でした。
行き方:シーズン中は水曜と週末にブロワから巡回バスあり。トウールからミニバスツアーも出ています。]]>
ブロワからシュヴェルニーへ
http://cheznono.exblog.jp/24463123/
2015-05-11T06:59:47+09:00
2015-05-11T06:59:40+09:00
2015-05-11T06:59:40+09:00
cheznono
不思議の国フランス
今日は快晴、予報では25℃になるというけど、午前中は涼しいので私の格好はユニクロの七分袖Tシャツにカーディガン、首にはスカーフも。
シュヴェルニーとボールガール城に行くため、ブロワから出ている周遊バスに乗車。最初の停車地シャンボール城前で大半の人が降りた後、派手な花柄サンドレスのマダムがドライバーに向かって騒ぎ出しました。「寒いのよ、なんとかならない?寒くてしょうがないわ!」「窓を閉めればいいんですよ」とドライバー。
バスはリムジンのような長距離用で、大きな窓は開かず、上部の細い窓ガラス部分が斜めに開閉できるのみ。なのにそれさえほとんど開いていないから、閉める余地はないに等しいのに、肩ひもだけのサンドレスマダムは私に向かっても「空気がひやっとするでしょ?第一、汚染された空気が入ってくるのがイヤだわ」とおっしゃる。「そういう格好されてるからじゃないですか?」と失礼なこと言った私に「25℃になるって言ってたもの。だいたい、汚染された空気や塵が入ってくるのがイヤなのよ!」汚れた空気と言われても、パリやリヨン(大気汚染が有名)ならいざ知らず、ここはロワールの牧草地。見渡す限り、緑の野原と林しか見えません。
ドライバーのお兄さんはできた人だったので、マダムをなだめるためにバス中の全ての窓を確認、上部が少しでも開いていると閉めて回ってます。
そうしているうち、シャンボール観光を終えた中国系の観光客が続々とバスに乗り込んで来て、ようやく落ち着いたマダム、気がつけばちゃんとカーディガンをバッグと一緒に持ってるじゃないですか。寒い!って騒ぐ前にカーディガンを羽織ってよ。
まもなく、バスはシュベルニーに到着。さして期待していなかったお城ですが、なかなか見ごたえがありました。
トウールに戻ってきたら、前を歩く男性がジロジロ見るのでイヤな予感。足を速めて追い越したら案の定話しかけられた。ボソボソと「中国式マッサージのお店知りませんか?」だって。まあ中国式マッサージって2種類あるからどちらか知らないけど、せっかくお城を回って良い気分だったのに、いっきに興ざめした日曜の夕暮れです。
画像はシュヴェルニーの村]]>
タルタルステーキの憂鬱
http://cheznono.exblog.jp/24437449/
2015-05-04T03:08:35+09:00
2015-05-04T03:08:30+09:00
2015-05-04T03:08:30+09:00
cheznono
不思議の国フランス
パリのマドレーヌ寺院の地下にある食堂は、登録するとランチを8.50ユーロで楽しめるという大変ありがたいサービスを提供していて、いつも賑わっています。ハイカラなこの界隈では破格のお値段で、一応アントレとメイン、デザートが選べる、というのがミソ。内容とお味は学食に近いとはいえ、教会ボランティアと思われるスタッフの感じ良さも人気の秘密かも。
その登録カードの期限がもうすぐ切れることに気がついて、冷たい雨の中、久しぶりに行ってみました。
その日のメインは、タルタルステーキかグラタン。そもそも、四つ脚動物はあまり食べない今日この頃なのに、何を血迷ったかついタルタルステーキを注文。スタッフのマダムが心配そうに私の顔を覗き込んで「生ですけど?」と言うのに、「まあ挑戦してみます」と返した私。生肉でも本当に大丈夫だろうか?
いやいや、確か昔学食でタルタルステーキを食した時は表面を焼いてあった。要はハンバーグの中身が生ぽいイメージだったし、たまには保守的な食生活から脱してみよう、と本気で思った時、登場したのは、スーパーで売っている挽きたてのひき肉そのもの、でした。
生ハンバーグなら玉ねぎやパン粉が入っているはずだが、そんな様子もなく、恐る恐る口にすると冷たい。えらく冷たい。うーむ。
そこへ、知的な印象の紳士が来て私の向かいに座り、同じものを注文。運ばれてきた皿のひき肉を付け合わせのソースとぐちゃぐちゃに混ぜて、パスタソースさながらにしてから、あっという間に平らげた。
ああ、ソースとしっかり混ぜればひき肉っぽさが消えるのね。でも、やはり私の一番の心配は食中毒なのです。確かユッケは日本で禁止になったはず。もう既に一口食べちゃったけど、このあとお腹を抱えてのたうちまわったらどうしよう?万が一O157とかが付いていたら命だって危ないかも知れない。なにせ私にはナマ肉に免疫がないのだから。
くだんの紳士が途方に暮れている私に哀れみの目を向けているので、「牛の生肉って本当に健康上問題ないんでしょうか?」と聞いてみました。「はあ、と言うと?』「つまり、その寄生虫とか何か、、」と私の失礼な質問ににやっとして、「フランスではちゃんと基準が守られているから全然大丈夫」とのお答え。スタッフのマダムは一言も「だから言ったでしょう」的なことは言わないできた人で、私に同情して「野菜を足してあげるわ」と付け合わせの野菜チーズ炒めを足してくれました。
「頼む前にに周りで食べてる人の皿をチェックしなきゃ」と紳士からはごもっともなアドヴァイスを頂き、泣く泣くタルタルステーキは諦め、デザートのチョコタルトでなんとかお腹をくちくした次第です。
結局生肉はわずかしか食べなかったにもかかわらず、しばらくお腹が消化にとまどっていたのは明らかですが、腹痛もなく無事に翌朝を迎えることができて本当に良かった。
しかし、このタルタルがもし、マグロのひき肉だからわさびと醤油でどうぞと出されたら、難なく食べていたかも知れません。]]>
イヴ・サンローラン
http://cheznono.exblog.jp/23447768/
2014-09-25T23:43:00+09:00
2014-09-30T00:22:01+09:00
2014-09-25T23:44:11+09:00
cheznono
映画
高級プレタポルテに縁のない私にはせいぜい化粧品と香水でお馴染みという程度のイヴ・サンローラン、デザイナー自身の実像は殆ど知りませんでした。しかし、2008年のサンローランの死後、ピエール・ベルジェがフランスメディアに登場しなかった月はないほどで、二人がいかにフランスで存在感のあるカップルだったかは推して知るべし。
激動のファッション界の第一人者として生き抜いた二人の栄光と葛藤を描いたこの作品はとても興味深く感動的でもあります。
アルジェリア戦争真っ只中、21歳のサンローラン(ピエール・エネ)は急逝したクリスチャン・ディオールの後継デザイナーに指名されます。周囲の嫉妬やいぶかいの目をよそに、サンローランの初コレクションは大成功。画家ベルナール・ビュッフェの愛人だったピエール・ベルジェはサンローランの才能に感服し、その内気で繊細な姿に惚れ込みます。ビュッフェと別れたベルジェはサンローランと暮らし始め、服作り以外は子供のように世間知らずのサンローランを公私ともに支えます。
両親がアルジェリアに残っているのに兵役で招集されたサンローランは精神を病んで病院へ。ディオール社は彼をクビにします。
憤慨したベルジェとサンローランは独自のメゾンを立ち上げることを決意、モデルのヴィクトワール(シャルロット・ル=ボン)の協力もあって、1961年、二人はイヴ・サン=ローラン社を創立。オート・クチュールから大量生産のプレタポルテが主流になって行く過渡期に、サンローランはまさに身を削ってエレガントで斬新なモードを作り出して行きます。
実務的には無能に近いサンローランに代わって、経営や営業などのビジネス面やメディア対応は全てベルジェが引き受け、デリケートなサンローランが服作りに専念できるよう必死で彼を守ります。しかし、自分の才能だけを頼りに次々に新しいデザインを発表しなければいけないサンローランはプレッシャーとストレスに押しつぶされ、次第に酒に飲まれ、薬に手を出し、刹那的な快楽に身を任せるように。
そんなサンローランに手を焼くベルジェは、カール・ラガーフィールドの愛人ジャックとの愛欲に溺れるサンローランから、ジャックの美点と彼を愛しているんだと聞かされます。「でも、生涯の男は君一人だよ」の一言に、やはりサンローランを守り抜く決意を新たにしたベルジェ。ジャックにサンローランと手を切るように諭します。
ベルジェは、ジャックに去られて荒れるサンローランをまるで父親のように受け止めるのでした。
画面を彩るサンローランのコレクションの数々は、ピエール・ベルジェ=イヴ・サンローラン協会が貸し出した本物の衣装を使用。ピエール・ベルジェの全面的な協力で制作された作品だけあって、あくまでもベルジュの視線で描かれてはいますが、50年間に渡るベルジェの父性愛にも通ずるサンローランへの愛情には感動を覚えずにいられません。
コメディ・フランセーズから参加した主演のピエール・エネの演技を観た時、あまりに若き日のサンローランに似ていたために思わず涙したというベルジェ。
いかにサンローランが類いまれな才能に恵まれていたにしても、ベルジェの深く大きな愛情とビジネスの才覚あってこその成功だったことは疑う余地がないでしょう。
フランスでは今週、イケメン俳優ギャスパー・ウリエルがサンローランに、ジェレミー・レニエがピエール・ベルジュに扮した「サンローラン」が封切られ、前評判も上々なので、こちらも是非日本公開を期待したいですね。
ちなみに画家のビュッフェは、ベルジェと別れた後、歌手で作家の奔放な女性アナベルに一目惚れ。結婚後は彼女の絵を描きまくっています。
イヴ・サンローラン公式サイト:http://ysl-movie.jp
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